検索で唯一ひっかかった英語の文章翻訳しました。
http://www.britishtheatreguide.info/articles/140508d.htm
筆者に許可が取れたので全文掲載します。下の「続きを読む」からどうぞ
この記事を載せているThe British Theatre Guide は 1997 年から運営されているそうで
ウェブサイトとしてはなかなか歴史がありますね。
企業のひも付きではありません、フラッシュなんかくそくらえ、
どのページも10秒以内に見れるでしょ、と気骨のある感じ。
Kunstenfestivaldesarts 日記 (4)
2008年5月14日
夕方の日差しがとてもきつくて、でも既にミネラルウォーターは飲み過ぎてお腹が破裂しそうだったので、Beursschouwburg に戻る細くて曲がりくねった道を、出来るだけ日陰を選んで歩いて、やっとのことで劇場の下にあるABカフェにたどり着いた。ここの食べ物は素晴らしくて、コストパフォーマンスも良い。長くて高いテーブルは、厚い白い紙で覆われていて、ビールを一二杯ひっかけた後に、天井からつり下げられた鉛筆でごにょごにょといたずら書きをしたり、深遠な哲学的つぶやきを残したりすることが出来るようになっている。19世紀のメイドの格好を模した、紙の服を着た若い女の人が、テーブルの間を歩き回って、紙を交換していて、興味深い部分があれば切り取って他の大きな紙に貼付けて展示しなおしす。これは、コスチュームデザイナーでアーティストのValentine Kempynck がコンセプトを考えたもので、フェスティバルの期間中行われている。
他の壁にも、気の利いた展示がある。誰がかマイクとヘッドフォンの絵を描いていて、そこに文章が添えられていて、先進国がしゃべって後進国は聞くばかりと書かれている。手洗いの流しにも、同じような興味深い社会派の作品がある。アフリカ人の子供の絵が流しの底に描かれていて、大きく開いた口が、丁度流しの穴に重なっている。文章には、我々は清潔な飲料水をどこでもすぐに手に入れることが出来るのに、彼は水のために20kmも歩かないといけないことが書かれている。
サーモンとポテトのソテー、それに素晴らしいサラダを頬張りながら、わたしがなにをテーブルクロス書いたかは、読者には知らせないでおこう。Kempynck の観客参加型の共同作業による展示については、後回しにしようと思う。今から、日本人振付家の作品を見なければいけないのだ。これがまさに多文化交流フェスティバルいうことじゃないのかと思う。オランダ人ビジュアル・インスタレーション・アーティスト、ドイツ人作曲家・指揮者、トルコ人ダンサー、ときた後に、今度は日本人だ。そして明日わたしは、スイスの演劇団体(そのメンバーはドイツで練習)のおかげで、ここブリュッセルから、カルカッタの誰かさんと電話で話さなければいけないことになっている。
It Is Written There
Zan Yamashita
於 Beursschouwburg
2008年5月9日から13日
この文章を読んだ人には是非 It Is Written There を見に行ってもらいたい。Kris Verdonck と Heiner Goebbels を見たなら、人類は滅亡しなきゃいけないと思うかもしれないが、山下残なら人類を救ってくれるかもしれない。彼のカンパニーは、コミュニケーションをとること、コミュニケーションについて理解すること、コミュニケーションを楽しく人間的で愉快なものにすることに、懸命である。実際彼らの公演を見れば、心地よく暖かくもやもやした気持ちになる。更に言うと、色んなレベルでそうなる。子供なら絶対に気に入ると思う。子供なら公演中展開されることを理解するのになんの障壁もない。なぜかというと、子供はいろいろな面でわれわれ大人より賢いから。子供なら、本当は大事なのだけれど細かな事を、退屈だときめつけてしまうほど、「頭が良く」はないし、些細なことも見逃すことがないので、大人よりコミュニケーションに関しては上手だ。子供はわれわれ大人が忘れてしまったこと、コミュニケーションしようとするなら、ありとあらゆることが大切になるということを分かっている。それぞれの動き、ささいなジェスチャー、細かな表情、音、その他その他、たくさんのこと。
入場すると、表紙にタイトルのある大きな本が渡される。中身は、日本の本のように最初から最後までページの番号が振ってあり、英語の部分は左から右に文章が書いてあり、日本語の部分は..横書きなのは英語と一緒だ。中身はすべて山下のスクラップブックから抜き出した文章や図であり、ふたつの足の底の感覚、何年間分の埃をかぶった古い彼の振り付けのプロジェクトの本からの抜粋といったものがちりばめられている。いろいろな面で、過去数年間彼が学び続けて得た、様々なものに対する疑問や、作品についての考えが反映されていると思われる。
若そうに見える日本人、きれいに散髪してぴったりとしたスーツにネクタイをした男が、マイクスタンドを持ってステージ上に現れる。彼が面白おかしく自己紹介を始めると、フランス語とオランダ語で字幕が出て、本はもうあなたのものなので、ページをめくるときに指につばを付けても大丈夫ですよ、と告げられる。彼は観客に指示を出す、いわば観客と舞台の仲介者で、司会進行役だ。
山下残は、京都を拠点に活動する振付家であり、彼のテーマは、話し言葉や書き言葉と、身体言語との関係性だ。その課題はリハーサルや即興のときのダンサー達だけなく、観客にも同じように投げかけられる。手元に書かれたテキストがあることは、身体の動きのコードを読み解くことに影響があるのか。言語表現が、ゼスチャーや身体言語を生むのか。ゼスチャーや動きは、言語表現の説明にすぎないのか。それとも逆か。動きを見る時その意味が分かるのは、それが本に書いてあるからなのか。あるいは本に書いてあることの意味が分かるのは、動きを見たからなのか。動きは本に書かれていること以上のことを、分からせることができるのか、あるいは他人の想像を動きが具現化していることによって、わたしの想像力は制限されているのか。ゼスチャーの集まりにすぎないものが、どの時点で物語に変化するのか。山下が答えを教えてくれることはない。あなたが自分自身で考える必要があるのだ。
ダンサー4人は、それぞれ体型や性格がまちまちで楽しい。ダンスでよくあるように、そのエネルギーに一体感を与えようとか、それぞれの違いをごまかしてしまおうという試みはなされない。司会進行役は、次のページ数を英語と日本語で告げる。われわれはそこに書かれた言葉を見ながら、ひとりか数人のダンサーを眺めることになる。ときに彼らはページに書かれていることを、説明するかのようであり、時にユーモラスであったり、サプライズがあったりする。時には直接観客に語りかけるとこもあり、例えばダンサーのひとりが、ブラのカップに隠したコースターをカンニングペーパーにしながら、オランダ語とフランス語で観客に話しかけ、いくつかのフレーズを選んでくれればそれを踊ってみますという。
くだんのダンサーは抜群に良かった、彼女の簡潔な動きは鋭く、かつその流れるような正確さで、豊穣さと質感、繊細さをうまく溶けあわせていたように思う。彼女の動きから目を離すことができなかった。そしてそのことが、また別の疑問を惹きおこす。身体の発達は、どの時点で動作の意味の解釈に影響し始めるのか。ドレスは?ヘアスタイルは?ダンサーのうち、ふたりは小さくて活発で、ほとんど子供のようにみえた。彼女達が小さいことが、どれぐらい私の解釈に影響しているのか。動きというものは、本当に普遍的意味を持つのだろうか。日本人の観客であれば、わたしが見落としているかもしれない微妙なことに気づく事ができるのだろうか。
わたしにとってのハイライトのひとつは、司会進行役が、手話で歌う聾唖者の合唱団の指揮をするところだ。それぞれの「歌手」は確かに違う「声」で歌っていた。そして司会進行役の彼が、ロックンロールの曲の一節を、エモーショナルに、激しく、でもかなり調子はずれに、歌い始めると、というか叫び始めると、観客は大爆笑だった。もうひとつのハイライトは、白いシンプルな服を着たダンサーが、一連の動きを、舞台の様々な場所で、違ったライティングで踊ったところだった。場所とライティングの違いが、ダンスの解釈を変える。彼女は子供なのか、母親なのか、それともその両方なのか。でもそれはあくまでわたしの解釈で、あなたは違った風に感じるかもしれない。挑むように、質問が投げかけられるのだが、その答えに関しては寛容なのだ。
公演全体の軽く穏やかで丁寧な雰囲気に騙されそうになるが、その背後には挑戦的な質問が控えている。公演が終わって会場を出ると、本を自宅に持ち帰るための、簡素な白いビニール袋が用意され、ダンサーと司会進行役がそこに立っていて、軽くお辞儀をしながら微笑み、おやすみなさいと言っている。
階下のカフェではやらなければいけないこと、会わなければならない人が待っているのだが、アンケートを書かなければ、この心地よいような暖かいような気持ちを大事にしたい。
明日も続きます。
Jackie Fletcher

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